アズマさんとシラトリさん
いつからこうなったのか? と、問われれば、
「気づいたらこうなっていたのだ」
と、そう答えるしか出来ない。
そう、気が付いたらいつの間にか、自分が望みもしなかった状態に陥っていたのだ。
「シラトリさん、本当、いい加減にしてくれませんか。あなたは、いつまで、ここに、居座る気ですか?」
「んー? いつまでって、僕の気が済むまでに決まってるじゃないか。それよりも静かにしてくれ。僕が今、何をやっているのか分かってるだろう」
「ええ、分かっていますよ。分かっているからこそ、こうやって問わなきゃいけないんじゃないですか」
「分かっているなら静かにしたまえ、アズマ君。筆ペンで書くのは結構根気の要る仕事なんだよ? まあ、オールプリントタイプの君には分からないだろうけど」
小馬鹿にした口調でシラトリと呼ばれた男ははっきり言い放つと、慣れた手つきで年賀状の宛名を書き続ける。
プリンタを一切使わないと豪語するだけあって、シラトリの字はかなりの達筆であった。
自分の悪筆振りを痛いほど理解しているがために、オールプリントで済ませているアズマと呼ばれた男は、不愉快だと言わんばかりに眉間へ皺を寄せるが、シラトリが視線を寄越すことは無かった。
「あなたは、俺の家に居候するときの約束事を忘れたんですか。俺はあなたにはっきりと言いましたよね」
「ああ、勿論覚えてるよ、アズマ君の言ったことは一時一句逃さず全て」
「じゃあ、今すぐ全て言ってみてくださいよ」
急かすように問い質してくるアズマに対して、シラトリは片眉を器用に上げながら、いいとも、と自信に満ち溢れた口調で返事をする。
筆ペンを動かす手も一切休ませることなく、アズマとの間に取り交わした約束事を諳(そら)んじ始めた。
一つ、仕事以外はアズマの生活リズムに合わせる。
二つ、急に洋服以外のもので大きいものが必要となり、尚且つ部屋に置かなければならない場合、必ずアズマに相談する。
三つ、シラトリを部屋に置いておける期間は一月――つまり、二〇〇八年十二月二十五日までとする。
「――シラトリさん、今日は何月何日ですか?」
「今日は十二月二十六日だね。あ、そういえば、昨日はクリスマスだったじゃないか。あー、それで君は今朝から機嫌が悪いのか。いやー、気が付かなくて御免ね、ケーキ買ってくるのを忘れていたよ」
「俺が怒ってるのはケーキを忘れ去られたからじゃありません! それに、ケーキは昨日俺が買って、もう食べましたよ」
「何、君一人で食べちゃったの? 何で僕の分を残しておかないのかな。僕が甘いものが好きなこと、知ってるだろう」
「あなたがちゃんと部屋を見つけていたら、そのお祝いとしてケーキくらい残しておきますよ! けど、結局あなたは部屋を探す素振りなんてこれっぽっちも見せなかったじゃないですか!」
アズマは怒りに任せて、拳をテーブルに叩きつける。
怒るとテーブルを叩くクセがあることをこの一月の間に学んでいたシラトリは、既に宛名書きを止めて、キャップをはめることが出来なかった筆ペンと、飲みかけのコーヒーが入ったマグカップを避難させていた。しかし、年賀状は避難させることが出来なかったため、テーブルから落ちて散乱した。
足の上にも何枚か落ち、アズマは忌々しげに感じながらも、自分が招いた結果だとも考える。
急いで拾っているシラトリに倣い、年賀状を集めようと足の上にあるものへ手を伸ばしたとき、ある違和感を感じた。
「――これ……ちょっと、シラトリさん。この表書き、どういうことですか」
「ああ、見られちゃったか。何ってただの表書きでしょ。それがどうしたの、アズマ君」
「それがどうした、じゃありません! 何で、差出人のところが俺とあなたの連名になってるんですか」
「何でって、僕は君と一緒に暮らしているんだから、名前を書くのは当たり前でしょうに」
「俺が何時、あなたと同居していることになってるんですか! あなたはただの居候! それ以上ではありませんよ!」
「僕は君と同棲してる気分だけど」
「どこがですか! あっ、もしかして――」
あることに気が付いたアズマは、既に拾い終わっていたシラトリの手から年賀状を奪い取ると、一枚一枚表面を確認した。すると、宛名書きが終わっている年賀状には全て、自分とシラトリの連名になっていた。
ショックで固まるアズマの手から年賀状を取り返したシラトリは、書きかけの宛名書きに手をつける。シラトリの中で今大切なことは、アズマのことではなく私用で送る年賀状の宛名書きだった。
暫く固まり続けていたアズマだったが、更に表書きで気づいたことを思い出し、既に書き終わっている年賀状を一枚手に取ると、シラトリに突き出した。
「それと言い忘れるところでしたが、俺の名字は『東』じゃありません! 『吾妻』です! 『わが』の『つま』と書いて『ア・ヅ・マ』なんです! 言っておきますが、『す』に濁点ではなく、『つ』に濁点ですからね」
「わがのつま、と書いて吾妻……つまりそれは――僕の妻になる、ってことで解釈していいのかな?」
「誰が誰の妻になるんですか? 解釈して欲しいのは、俺の名字だけですよ!」
鼻息も荒く言う吾妻に、シラトリは暫し思案をした後、おもむろに吾妻の方へ向き直ると、
「なら、僕からも一つ言っておくけど、僕の名前は『白島』だ。君は初めて会ったときから『シラトリ』と僕のことを呼んでいるけど、『白い島』と書いて『シラシマ』なんだよ。君に渡した名刺にもちゃんと『白島』と書いてあっただろう?」
と、思わぬ反撃を食らった。
不意を衝かれた返しに、吾妻は言葉を失う。
今までの調子をすっかり失ってしまった吾妻に、白島は口の端を上げて笑みの形にする。片眉も器用に上げており、その表情はまるで勝ち誇っているかのようだった。
「まあ、どうせ君のことだからまともに名刺なんか見ずに、漢字の形でシラトリと決め付けたのだろうけどね」
「……紛らわしい名字をしたあなたが悪いんですよ」
「僕は一つも悪くないよ。でも、間違えたのが僕でよかったねぇ。これがもし君の会社の取引相手だったら、とんでもない失態だよ。下手したらクビを切られてもおかしくは無いんだよ?」
「……確かに間違っていたのは失礼かもしれないですが、あなたはいつになったら俺の部屋から出て行くんです?」
どうやら一呼吸置いたことによって調子を取り戻したらしく、吾妻は先ほどと同じ強い語気で白島を責め立てる。
吾妻のあまりにも早い立ち直りに、白島は驚きを感じたがそれを表に出すことは一切無かった。
「――君が言いたいことを纏めると、年賀状なんぞ書いてないでとっとと出て行け。そう言いたいのかな?」
「纏めるも纏めないも、俺はそれしか言ってませんけど?」
「……ふむ。ならば、君の代わりに立て替えた十五万円、今すぐ耳を揃えて返してもらおうかな」
「……え? 今すぐ――ですか?」
「そう、今すぐ。だって、僕がこの部屋を出て行った後、君との繋がりはなくなるだろう? そうしたら僕は貸し損じゃないか。出て行けというのなら、僕が貸した十五万、今すぐ返せるということだろう? 違うかい?」
余裕のある笑みを浮かべる白島に対し、吾妻は顔を青くするしかない。
白島の言っていることは全て正しい。
白島が吾妻の部屋へ居候した直後、吾妻はローン返済に使う金を全額落としていた。ピンチに陥った吾妻は白島に頼み込み、ローン全額を肩代わりしてもらったのだ。吾妻としては今月のローン代を借りるつもりだったのだが、白島はローン全額を何故か払ってくれた。
ボーナスで全額を白島に返すつもりだったが、予想に反して今年はボーナスはすずめの涙程度にしか入らなかったのだ。
白島の言っていることは全て正しかった。
貸してくれた本人を出て行かせるということは、それまでの貸し借りは全て清算出来るということである。つまり、白島に肩代わりの十五万全額をすぐに返せるということだ。
しかし、先にも述べたとおり吾妻には、十五万という大金を手元に用意することが出来ない。
「で、用意は出来ているのかね? アズマ君」
「……出来てません」
「出来てないのに出て行けなんて言ったのかい? 君は本当に後先考えない性格だねぇ。だから、身の丈に合っていないローンなんか組んで、利子だけしか返せない日々なんか送るんだよ? けど、僕が全てを払ったお陰で、優良債権者から抜け出せた訳だけどね」
「……嫌味を言いたいのか、自慢したいのかはっきりして下さい」
「そりゃあ両方に決まっているだろう。手札は増やしておくに限るからねぇ。そして、取捨選択はしっかりとして、切り札を出すタイミングを見計らう。君には全て足りないけどね」
「……あんた、本当に嫌な奴だな。押しかけ同然で俺の家に居着いた挙句、俺に恩を無理やり売って鼻高々かよ」
「――なら、君の代わりに出した生活費云々も取り立てていいんだね?」
「あーもう! あんたの気が済むまで居て下さって構いませんよ!」
「あ、そう? いやー、悪いね。なんか無理に言ったみたいでさ」
全く悪びれる様子も無く、軽い口調で謝った白島はすぐさま表書きに取り掛かる。既に正月には届かないことを分かっているのか、はたまた追い出される気も出て行く気も無いことを表しているのか、筆を持つ腕の動きは緩慢だ。
舌戦では一度も白島に勝ったことの無い吾妻はきつく唇を噛み締め、年賀状の表に書かれる自分の名前を黙って見つめるしかなかった。
――己の判断が間違っていた、と悔いても既に遅い。
悔いたところで、男が出て行くことは皆無なのだ。
おしまい
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