呪われた首飾り
男の血走った眼を見ていて、ふと、白目に何か違和感を感じた。普段見慣れているものに、何か見慣れないものを見つけたような気がしたのだ。
自分が感じた違和感が何なのか、ソーマは究明しようと男の白目に注視する。男はどれか一つに見るものを定めていないらしく、忙しなく眼球を動かしているせいで中々違和感の原因を掴むことができない。しかし、フランチェスカが動いたとき、男はフランチェスカの動きに注意しようと眼球だけを彼女の方へ向け固定させた。固定させたその一瞬、向かって左側の白目が両方はっきり見れたとき、ソーマは違和感の原因を見つけ声を上げた。
「姐さん! タトゥーが! こいつの右眼にタトゥーがある!」
「タトゥー!? ソーマ、それがどんな模様か分かる?」
フランチェスカに問われ、ソーマは慌てて男の右眼だけを注視した。
男はフランチェスカの動きが気になるのか、ジルドとは鍔迫り合いを続けたまま、鞘から抜き取ったナイフを投げつけている。フランチェスカも男の右眼を確認したいようだが、投げつけられるナイフを避けるのに精一杯でそこまでできないらしい。
ジルドが男の剣を受け止めているだけで、それ以上何もしないのが気になるものの、ソーマにそれを問う余裕はなかった。
フランチェスカへ気がいきそうになるのを堪え、必死でタトゥーの模様を確認する。全体は円錐に似た形で、中央付近から細長いものが数本出ている。それはまるで、呪われた首飾り本来の名前を思い出させる模様だった。
「姐さん、リリーっス! リリーの
――」
「嘘ですわ! そんなこと絶対にない! ありえないですわ!」
「マリレーナ!?」
ソーマが見た模様、リリーの名を言った途端、背後から大きな否定の声と驚きの声が上がる。マリレーナの人格がリトアになっていることを知らなかった依頼主が、普段の彼女とは全く違う口調に驚いたのだ。リトアは、戸惑いながら声をかけ続ける依頼主を無視し、ソーマとフランチェスカに言い続けた。
「わたくしはこんな男知らないですわ! わたくしが知らないのに、リリーのタトゥーが出るはずありませんわ、お姉さま! この男の見まちがいに決まってますわ!」
「ふざけんな! 俺が『絵』に関して見間違いするわけ
――」
「ジルド、どんな模様なの?」
「リリーです」
ジルドの宣告に、リトアは怒りの表情から泣きそうな表情へ変えた。自分の報告だけ信用しなかった彼女に、ソーマは思わず大きな舌打ちをする。フランチェスカがこちらを見たような気がしたが、それでもソーマは態度を改めようとはしなかった。
フランチェスカは投げつけられるナイフを避け続けながら、リトアと男を交互に見やり、まるで何かを理解したように頷く。それを見た男は怒りの矛先を完全にフランチェスカへと向けた。
「さっきから
――」
「あんたの狙いはこの首飾り? それともこの場に居るみんなの命?」
「うるせえ! 全部に決まってんだろうが! 俺から全てを奪いやがって! 金も! 会社も! 女房、ガキ全部! 全部奪っていきやがった! 全部だ! だから俺から奪っていった全部をぶっ壊してやるんだよ!」
「ぶっ壊したところで、あんたが失ったものがかえってくるとでも? 言っとくけど、この首飾りを渡すつもりは毛頭ないわ!」
「何なんだよ、さっきからよォ! それは俺が最初に目ェつけてんだ! それをあいつが横から掻っ攫っていきやがった! さっさとよこせ、くそアマがあっ!」
最後の言葉と同時に渾身の力で男はナイフを投げたが、フランチェスカは難なくそれを避ける。男はさらに苛立ち、剣を振るおうとしたが、びくともしなかった。男は焦りながら柄を上下に左右にと動かしているが、それでも刃の部分は半分近く埋もれたジルドの腕から離れない。
フランチェスカは男の怒りを更に増幅させるようなことを言葉にしながら、じわり、じわり、と男との距離を縮めている。ソーマとリトアはそれに気づき、慌てて首を横に振るが、彼女は睨むように二人を一瞥した後、更に神経を逆撫でにするような言葉を口にし続けた。
「眼をつけていたのなら、なぜさっさと買わなかったの? あんたが買わなければ、他の者が買っていくのは至極当然なことよ。そんな当たり前のことができなかっただけで、私たちを恨むだなんで筋違いにもほどがあるわ!」
「筋違いだァ!? 冗談じゃねえ! 俺は最初から目をつけてた! 他の奴らに売らねえようにオーナーと話もつけた! あれさえありゃあ、俺の会社が潰れることはなかった! だがこいつが娘の誕生日にやるんだとぬかして俺の目の前から掻っ攫ってったんだ! それの価値も知らねえ馬鹿娘にやるんだとよ! そいつの値打ちを知ってるのは俺だ! とっとと寄越せ!」
「価値を知ってるですって? あんた自身
――」
「本当の、真実の価値を知らないのは貴様のほうですわ! お姉さまも、お父さまも、わたくし自身の価値を存じてますわ! 価値も、その首飾りにこめられた『お父さま』の思いも
――全部全部、貴様以外は存じてますの! わたくしをただの客寄せか何かにしようとして買おうとしてた貴様とは、全く違いますわ!」
怒りに満ちたリトアの声がホール内に響き渡る。ソーマの後ろに隠れるように蹲っていた少女は、いつの間にか彼の隣に立っていた。侵入者を睨む少女の表情は、憤怒の色で染められ、両の拳は白くなるほど握られていた。
慌てたソーマによって後ろへ下がるよう引っ張られるが、少女は頑として動かず男を睨み続ける。自分の身体ではないことを忘れているのか、少女は血が滲み出るほど唇を強く噛み、時折漏れ出る、あんたなんかに……という呟きが少女の悲痛な叫びに聞こえた。
その呟きが聞こえたのかは分からないが、男の顔がゆっくりと少女らの方に向いた。眼を見開いた男の表情は驚くほど無くなっており、感情が全くといっていいほどに読み取れない。血走った男の眼球にある、真っ黒なタトゥーを目にしたとき、言い知れぬ恐怖をソーマは本能的に感じた。
男は発狂したかのような叫び声を上げると、剣を振り上げようと腕の筋肉に力を篭める。筋肉の動きを見たソーマは、剣はジルドの腕からは抜けないだろうと考えるものの、例えようのない恐怖が彼の身体を突き動かし、依頼主とその娘に怪我を負わせないため二人の前へ両腕を大きく広げ立ち塞ぐ。だが、剣はその場にいた誰もが予想しないところへと動いてしまった。ソーマの目にはその瞬間から先が、まるで一コマ一コマ動かしているかのように、全てが酷くゆっくりとした動きに見えた。そしてその流れは、フランチェスカの予想とは少し違ったものだった。
男が力を篭めて動かした剣は、嫌な軋みを上げながら、じわり、とジルドの腕から抜け始めた。予想以上だった男の力に、ソーマは間の抜けた呟きを発し、ジルドは初めて驚いたように目を見開いた。剣は金属が軋む音を発し続けながら、じわりじわりとソーマが立っている方へ向けて抜けていく。無理やり動かされた剣は更に深い亀裂を生じ、遂には無理な力の加えられ方に耐え切れなくなったのか、ポッキリと折れた。
折れた刃先はまるで男の悪感情を篭められたかのように、まっすぐソーマの方へと飛んでいく。どこかしらに突き刺さることを覚悟したソーマは、恐怖に顔を歪ませながらも刃先から目を離そうとしない。しかし、刃先がありえない角度に曲がり始めたのを見て、恐怖から驚きの表情へと変わる。そして、曲がった切っ先の行き先に、ソーマの一番大事とする人が立っていた。ソーマが叫び声を上げるのと、ジルドがナイフを投げる男を殴り飛ばすのは同時だった。
ソーマには、不吉な赤い花びらが、大事な人の辺りで散ったように見えた。大事な人はふらつく体を何とか倒れないよう踏みとどめているが、肩全体で呼吸をしている。刃先が抉るようにして傷つけた左こめかみ辺りからは、止めどなく鮮血が流れ続け左半身を濡らしていた。覚束ない足取りで吹っ飛んだ男の下へ行くと、いつの間にかジルドが用意していた透明な液体が入っている細長いガラス瓶を手に持ち、ガラス瓶の縁に自らの血で濡れた左指で触れる。数滴の血が入ったことを確認し、それを男の右目周囲へ垂らしていくと、垂らしたところから煙が吹き出てきた。そして何かが焼けるような音が静まり返った惨劇の場に響き渡った。
垂らした液体が蒸発し、焼けた痕もないことを確認したフランチェスカは、持ちこたえられなかったのか床に倒れこんだ。ジルドが素早くだき抱える横に、酷く慌てた様子のソーマとリトアが駆け寄る。
「姐さん! 何で……何でそんな奴を助けるんスか? こいつは、こいつは姐さんのことを殺そうとしたんスよ!」
「……だからと言って、放置していいものじゃ、ない」
「お姉さま! わたくし……わたくし
――」
「……何も、いわなくていいわ……なにも
――」
「おい、おっさん! 何で医者呼ばねえんだよ! 早くここに連れてこい!」
「あ、ああ、分かった……」
呆けた状態だった依頼主は、ソーマに怒鳴られ、その剣幕に驚きながら慌てて会場から走り去った。その後ろ姿を苛立ちの表情で見ていたソーマだったが、フランチェスカの呻き声を聞き、視線を下ろす。
ジルドの手によって傷口は抑えられ、怪我の状態は分からなかったが、フランチェスカの肌はジルドの肌のように白い。左半身を血で染め、元から真紅のドレスを身に纏っているせいで白く見える、とソーマは自身に思い聞かせようとするが、全くそのようには思えなかった。胸元を彩る首飾りは、フランチェスカの血を浴びて、殊更紅味を帯びていた。
少女は目に涙を溜め、フランチェスカの手を強く握っていた。血の滲んだ口元からは、フランチェスカとお父様に対する謝罪の言葉が溢れ続けている。
ソーマは、何もできない自分に腹立たしさを感じながら、黙ってその様子を見つめていたが、依頼主の屋敷へ行く前に薬屋から止血剤を貰っていたことを思い出す。会場へ行く前に、ポケットへ忍び込ませていた薬を取り出すと指で多く掬い取り、それをフランチェスカの傷口に塗ろうとした。だが、ジルドはソーマの要求に一切答えることなく、傷口から手を動かそうとはしなかった。拒絶し続けるジルドに苛立ち、ソーマの言葉はどんどん荒くなっていくが、それでもジルドは手を離そうとはしない。切れたソーマが無理やり引き剥がそうとしたところで、ようやく依頼主が医者を連れて会場へ戻ってきたのだった。