呪われた首飾り
「あの男は何なのですか? 昨日の朝からずっと扉に張り付き、わたくしを監禁するかのようなことをして。女性に対してなんてことをするのです?」
 口調は変わらずだが、かなり強い語気で怒りをあらわにした。
 あの男ことソーマは昨日の朝からずっと扉の前で、扉の細やかに装飾された彫刻を紙に描き写していたらしい。フランチェスカの記憶の中では、夜はジルドと一緒に部屋の中へ入り部屋からは一度も出てきてはいない。つまり眠っている夜以外はずっと部屋の前に居座っていたことになる。
 一つ何かに集中してしまうと周りのことが見えなくなる上、気遣いなど元からあまり出来ないソーマの性格を思い出し、フランチェスカは溜め息を吐いて軽く頭を振った。
 リトアに詫びの言葉を入れると、フランチェスカから謝罪の言葉を欲しかったわけではないらしく、少女は慌てた様子で顔を赤くさせながら、謝らないでくださいと言った。自身を落ち着かせるためか、少女はお茶を一口啜り、何回か意識的に呼吸をする。顔の赤みがとれた頃、控えめな声音で本題に入った。
「お姉さまにお時間をいただけたお陰で、とてもとてもよく考えることができましたわ。本当にありがとうございました」
 小さく頭を垂れる。話す速さが前回よりも早く、少々急いでいるようだ。
「あれから考えて、わたくし、決めましたわ。お姉さまの考える一件が終わりましたら、わたくしはお姉さまと契約を交わし、実体をいただこうかと思います」
――そう、それでいいのね?」
「はい。わたくしの望みでもありますし、お父さまの願いでもあると思いますわ。わたくしの役目は、わたくしを手に入れた人を幸せにすること。ですから、わたくしの役目は、今はマリレーナを、その後はお姉さまをお守りすることですわ」
 ふわり、と花が咲いたかのような笑みを浮かべ、フランチェスカを見つめた。
 リトアが言ったとおり、首飾りはポワズが愛娘の幸福を願って創ったものだ。即ち、所有者の幸せを願い、守ることがリトアの業である。
 リトアの意志をしっかりと感じ取ったフランチェスカはしっかりと頷く。そしておもむろに左手の親指を少し噛み切って血が滲み出たことを確認すると、いつの間に取り出したのか平べったい小瓶の蓋を開ける。中には少し黄色がかった軟膏がたっぷり入っており、フランチェスカは付けすぎないよう気をつけながら右手薬指で掬い取る。噛み切った傷から出る血と混ざるように軟膏をこすり付けると、それを少女が身に着けている首飾りの、一番大きなダイヤに塗った。塗ると同時に口の中で何かを呟く。
 呟き終えてダイヤから手を離すと、ダイヤには「何も」付着していなかった。少女は驚き、目を丸くしながらダイヤを灯りに翳す。しかし、ダイヤは今までと同じ真っ赤な色で、どこにも血液が付着した後は見られなかった。
 不思議そうな面持ちでこちらを見る少女に、フランチェスカは軽く肩をすくめ、
「私の家は代々、血が少々特殊なのよ。今行ったのは、ほんの仮契約のようなものよ。仮契約とはいっても、私が一方的にやったものだから、あなたが拒絶すればすぐに契約を解くことが出来るわ」
「わたくしは契約をとくつもりはありませんわ。それで、『仮』契約とはどういったものなんですの?」
「仮契約は憑いている人間の魂や精神を使わずに、表へ出られるように出来るだけよ。実体はちゃんと契約をしなければ用意することは出来ないし、仮契約をやっても精神を表に出せる時間は決められているわ。無期限じゃない」
「それじゃあ――仮契約をしているあいだは、マリレーナの魂や記憶などが減ってしまうことはありませんのね? 死んでしまうなんてこと、ありませんのね?」
「死なない、なんて断言は出来ないけど、魂や記憶が減るなんて事は無いわ。この薬がある限り、ね」
 いつの間に取り出したのか、フランカの右手にはやや細長い小瓶が握られていた。栓の上に紙で封された小瓶をそっとテーブルの上に置くと、冷めかかった紅茶を一口飲む。
 リトアは小瓶を持とうと手を伸ばしたが、中身を目視した途端、伸ばした手をそのまま止めてしまった。
 目を大きく見開き、戸惑いの表情を浮かべる。小瓶の中には赤い液体が並々と入っており、ぬらりと怪しく光る様はまるで「血液」に見えたのだ。
 不安げな光を宿した眼差しでフランチェスカを見やるが、フランチェスカは至って普通の面持ちで紅茶を啜っている。その様子はどうやら訊かれない限り話しそうには無い。
 すぐに答えを求めてはいけない。何故かそう感じたリトアは、視線をもう一度小瓶の方へ向け観察することにした。
 恐る恐るといった様子で小瓶へ手を伸ばし、両手でそっと持った。何となく小瓶に生暖かさを感じ、リトアの中で恐怖と疑念が一段と膨らんだ。
 小瓶は2.8インチ(約七センチ)ほどの大きさで、中身は先ほどよりほんの少しだけ減っている。コルク栓で蓋をしてあるところまで液体は入っていたはずなのだが、今は蓋と液体の表面には確実に隙間があった。
 コルク栓が液体を吸ったのかと思ったが、それにしては減った量が少なすぎだ。なにより、ここへ来るまでに吸われているはずなのだから、量が減ることは妙なことだった。
 瓶は珍しく透明度が高いもので、コルク栓もよく見えるのだが、そのコルク栓には赤い液体を吸った様子は見えなかった。
 液体が減ったことに疑問を持ちながらも、小瓶を灯りにかざす。
 かざして見ると液体は澄んでいることが分かった。灯りが液体を透して赤く輝いている。その赤い輝きが、まるで地平線へ消えゆく前の太陽を彷彿ほうふつとさせ、また血に染まった自分自身にも見えた。
 瞬時に過去のヴィジョンがフラッシュバックを起こす。鬱蒼うっそうと茂る森の中――白いドレスを纏う女――刃物を持つ男――広がる緑――緑から赤へ――そして、鉄の臭い。
 吐き気が込み上げ、目のふちに涙が溜まり始めた頃、急に右手を掴まれた感触を覚え、リトアは身体身体を震わせた。
 合わない焦点で娘の右手を見ると、誰かの手が滲んで見える。その握っている手から視線を辿っていくと、娘の――リトアの目をしっかりと見つめるフランチェスカの視線とぶつかった。
 フランチェスカはゆっくりと首を横に振ると、娘の手を両手で包むように握った。握り方は先ほどの力強いものとは違い、優しく労わるような、恐怖で脅える子どもを宥め安心させるかのようだ。
 ヴィジョンで思い出した男の冷たい手と違い、フランチェスカの手は温かかった。手の甲を撫ぜられると、何故か心が落ち着いていく、大変温かい心地をリトアは覚えた。
 心地よさから平静を取り戻したリトアは、また視線を小瓶に戻した。
 灯りにかざさない状態だと、液体は濁って見える。この液体の正体が何なのか、リトアには全く分からなかった。
「不思議でしょう? その液体」
「ええ、とても不思議ですわ。この液体の正体は何ですの? この赤いものが、まるで血のように感じられるのですけれど」
 口を開いたフランチェスカの声音は、面白がっているような笑っているような節が含まれている。
 しかし、その声音はリトアを馬鹿にしているわけでも、からかっているわけでもない事をリトアは理解していた。理解はしているが、この液体の正体については把握していない。
 疑問が膨らみ続けているため、リトアは返事もそこそこに回答を急かした。
 もう、娘の命も精神も使わずに済むことは分かっているが、だからといって表に出ていられる時間が無限というわけではない。
「簡潔に言うと、これはコンティ一族が作る秘薬の一つ。一度は廃れたけど、先代が復活させたもの。この薬は魅魔が仮の依代よりしろとして使うもの。魅魔の主な活動源の代わり」
「でも、実体は――なし」
「そうよ。実体を手に入れれば、魅魔の精神は半永久に留められるわ。でも、実体を手に入れるには、私との契約と『ある場所』へ赴かない限りは無理よ」
「この小瓶の役割は分かりましたわ。では、この液体は『何』で出来てますの? 普通の薬草だけで、このような不思議な液体は出来ませんわ。それこそ不可能」
「そうね、確かに『普通』の薬草では無理ね。この液体の主成分は、私の血液。コンティ一族だけが持つ血の効果によって、濁っているようにも澄んでいるようにも見えるのよ。――まるで魔女が作るかのような薬にね。」
 こともなげに言うフランチェスカに対し、リトアは幾ばくかの恐怖と疑問を感じながらも話を促す。
「お姉さまの血が殆どなんですの? この小瓶の中身は」
「割合は口が裂けても言えないけど、血が憑依した者の命と精神の代わりで、薬が血と魅魔を繋ぐ橋渡しの役だという事実は変わらないわ」
「そう、ですの……分かりましたわ、お姉さま。教えてくださって、ありがとうございます」
「なんてことは無いわ。私はただ訊かれたことに対して答えただけ。あなたが考えて出した答えに、私が注釈をしただけのこと。ただそれだけよ」
 ただそれだけ、そうもう一度言うと、残り少なくなった紅茶を一気に飲み干した。
 カップの中が空になったことに気づいたリトアは、フランチェスカにもう一杯いるかと尋ねたが、首を横に振られた。
「そろそろ、部屋の方へ戻って対策を練ることにするわ。あなたにはまだ話したいことがあるけど、それは明日でいいかしら? そうでないと、身体の方に負担がかかってしまうわ」
「そうですわね。わたくしが表にでていることは、この娘にとってもおおきな負担になるでしょうし」
「この小瓶は私が持ってるわね。コルク瓶につけてある紙をご息女に剥がされたら、契約が解除されてしまう上に薬はもう使えなくなってしまうわ。そんなことになったら、良いことなど一つも無い」
「ええ、そうしてくださるとうれしいですわ。仮に剥がさなかったとしても、割られてしまったらそれこそおしまいですもの」
「それじゃあ、また明日。四日後にはフェスタ当日になってしまうから、貴女にとって心の準備はちゃんと出来ないかもしれないけど――貴女のことは助けるわ。コンティ一族の名に懸けて。絶対に」
 強い意志を持った目で断言したフランチェスカは、紅茶ご馳走様、と言ってから部屋を去った。
 一人残されたリトアは、心の底に残る多少の不安を吹き飛ばすかのように首を横に振ると、既に立ち去った女性に対し深々とお辞儀をした。
 そして、少女の小さな身体に対して大きすぎるベッドへ身を沈めると、目を瞑り、自身の意識を奥深くに潜り込ませたのだった。
前へ目次次へ